東部戦線
この頃ドイツ軍は、二次ルジェフの戦い以降、ソ連軍に対し完全に劣勢に陥っていた東部前線のクルスクを巡る戦いにおいて持てる予備兵力の大半を使い果たし敗北を喫した。前年からの相次ぐ敗北により装備も兵力も消耗し切り完全に疲弊したドイツ軍は、東部戦線ではこの後二度と攻勢に廻ることはなかった。[9]
フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピア戦争の結果植民地としたエチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、連合軍に対して完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使で、指導者のベニート・ムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、7月24日に行われた大評議会において、連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。この動きに対しムッソリーニの義理の息子でもあるガレアッツォ・チアーノ外務大臣ら多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、孤立無援となったムッソリーニは失脚、同日憲兵隊に逮捕され即座に投獄された。
逮捕されたムッソリーニの後任として、国王エマヌエーレ3世に任命されたピエトロ・バドリオ元帥率いる新政権は9月8日に連合軍に対して休戦し、直ちにイタリア軍は連合国軍に合流した。しかし、逮捕された後に新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソホテルに幽閉されたムッソリーニは、同月12日にヒトラー直々の任命により救出に駆けつけたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー大佐が率いる特殊部隊によって救出された。その後、かつての盟友であったヒトラーの保護下に降ったムッソリーニは、まだ連合軍の侵攻を受けていなかった北イタリア地域でナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」の樹立を宣言し、同地域は直ちにドイツの支配下に入ることとなった。
このイタリアにおける戦いと、その後のヨーロッパ戦線における戦いでは、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団が、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながらもアメリカの陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残しており、この事は戦後の日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献する結果を生んだ。
チュニジア戦線におけるド・ゴールまたドイツ軍とイギリス、アメリカ、自由フランス軍などの連合国軍が対峙していた北アフリカ戦線では、この頃より勢いを失ったドイツ軍に対して連合軍が主導権を握る。また、フランスの降伏以降自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかずに残存していたフランス軍を率い、イギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心に対独抗戦を指導した。
この様に連合国がヨーロッパ戦線において完全に優勢になったことを受け、この年には、カサブランカとカイロ、テヘランにて、イギリス、アメリカ、自由フランス、中華民国、ソビエト連邦などの連合国各国の首脳による、今後の戦争の方針と戦後の枢軸国の処理が話し合われる会議が相次いで行われた。
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